2015年3月2日月曜日

釣り銭

今日は朝からすごく機嫌がいい。
天気が良いからかな、月曜日だし先週にくらべて状況は何ひとつ好転してないのに何もかもがうまく行ってるような気がする。
自分が自分の人生をこれからどうしていきたいのかはまだわからないけど、こういう上機嫌な一日をできる限りたくさん集めていきたいということだけはわかる。

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昔から「機嫌良く振る舞う」ということを対人関係における優先事項のかなり上に置いていた。
人前で不機嫌やしんどさを露わにすることで、無関係な人たちに自分の荷物を持たせようとするような人間が大嫌いだったから、自分はそうなるまいと意識していた。私の数少ない長所のひとつだったと思う。
だけどここしばらく、なんやかんやと忙しくしているうちにその習慣をすっかり忘れてしまっていた。

人に当たったりはしないけど(あたり前か)機嫌が悪いときやちょっとした嫌なことがあったとき、人に優しくしたり自分から笑いかけたりしなくなった。笑いたいときに笑い、無表情でいたいときは無表情でいた。
こんなに楽でいいのか、今まで随分損してたんだなと思った。

だけどそういうふうに暮らしていると、一日のうち無表情でいる時間がどんどん長くなってきた。喜怒哀楽のうちの喜と哀の要素が毎日少しずつ、自分から抜け落ちていくような気分だった。
損得勘定に頭が支配されて、自分が他人に損させられていると思うようなことがあると手が震えるほど腹を立てた。いや大丈夫だひとつも損なんかしていないと思うと安心し過ぎて頭がボーッとした。そういうものが私の心の動きの中心になっていた。怒と楽の感情だけでできたお化けだ。
あいつら、あの四六時中機嫌悪かったやつら、こんな気持ちで毎日暮らしてたのか?こんなの地獄じゃないかと愕然とした。

自分が辛いときにこそ他人への思いやりを忘れず、見返りが無くても人に舐められても朗らかに笑っていられる、そしてなおかつそのことで心に澱を溜めずにいられる。たしかにそれは立派だと思う。
だけど人間というのはそこまで立派であらねばならないのか、そもそもそんなことが本当に可能なのか私にはわからない。
血を吐くようにして捻出した優しさはきっと尊いけど、自分や他人にそれができると過信することはトラブルや憎しみの原因にしかならないんじゃないのかと思う。

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とりあえず凡夫である私に関して言えば、今後は人の機嫌ではなく自分の機嫌を取る方向にシフトしていきたい。
自分自身に良くして、ニコニコ自分の機嫌を取りまくって、そしたらきっとどこかのタイミングでその余剰というか釣り銭みたいな形で余裕が生まれることがあると思う。
その釣り銭分で人に優しくできればそれで充分なんじゃないかな。

気持ちの釣り銭をじゃんじゃか出して人を喜ばせたり安心させたりできる人間になりたい。

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